好きな人のことを考えるとき、その気持ちのすべてが「好き」という一言にきれいに収まるわけではない。一緒にいて楽しい。少し苦しい。羨ましい。悔しい。憧れに近いのに、独占したい気持ちもある。名前をつけようとするたび、こぼれ落ちていくものがある。
厄介なのは、周りにその気持ちを説明しようとすると、結局「好きなんでしょ」の一言で片付けられてしまうことだ。片付けられた瞬間、自分の中にあった細かい感情のグラデーションが、なかったことにされたように感じる。本当はもっと複雑なのに、言葉にした途端に単純化されてしまう。
住野よるの『恋とそれとあと全部』は、その単純化される前の感情をすくい上げる。片思い中の相手と、夏休みの4日間だけ旅に出た主人公は、彼女を知れば知るほど、名前のない感情が自分の中に溢れてくるのを感じる。聴き終えても、それが「恋」だったと言い切れるわけではない。それでも、言い切れない気持ちのまま抱えていていいのだと思えるようになる。
7時間18分。最初の1時間、二人が旅に出る経緯を聴くだけでも、この物語の温度はつかめる。
どんな話か
主人公の「俺」は、片思い中のサブレという女性から、少し風変わりな目的を持ちかけられ、夜行バスでの旅に付き合うことになる。見知らぬ町で一緒に過ごし、会話を重ねるうち、俺の中には「好き」という言葉だけでは収まらない感情があふれ出す。特別な夏の4日間を通して、恋だけでは片付かない、世界の「あと全部」を巡る物語になっている。旅の目的そのものは、恋愛とは別のところにあるのだが、それを果たす過程で、俺とサブレの関係だけが少しずつ形を変えていく。
声で聴くとどう変わるか
ナレーターは岩崎愛。主人公の一人称で進む物語なので、整理しきれない感情の揺れを、声のトーンの微妙な変化として聴くことになる。文字で読むと説明過多に感じる心理描写も、声になると、言葉にしきれない間そのものが伝わってくる。
7時間18分。一日30分なら2週間半、通勤の往復なら10日ほど。作中の旅が4日間で完結する構成なので、聴き手も「今日はどこまで一緒に旅をするか」という感覚で区切りをつけやすい。主人公の思考がそのまま言葉になって流れてくる文体なので、声で聴くと、整理される前の感情の順番までそのまま追体験できる。
言葉にする前で止まる場面
手が止まったのは、主人公が自分の気持ちに名前をつけようとして、あえてやめる場面だ。名前をつけた瞬間に、この関係が単純な恋愛の型にはめ込まれてしまう予感がある。名前をつけないまま大事にする、という選択があることを、この作品で初めて意識した。
旅の終わりが近づくにつれ、サブレの言葉数が少しずつ変わっていく場面も印象に残る。何かが変わったとはっきり言わないまま、声の間合いだけで関係の変化を伝えてくる作りに、この作品らしさを感じた。
いま聴くなら『恋とそれとあと全部』から。旅に出る最初の場面だけでも、この二人の距離感が分かる。バスに揺られながら交わす何気ない会話の中に、すでにこの物語の核心が潜んでいる。
こんな人に向いている
- 好きという言葉だけでは、今の気持ちを説明しきれずにいる
- 告白や結末より、気持ちが積み上がっていく過程を聴きたい
- 片思いの相手との、限られた時間の旅の話に弱い
- 感情に名前をつけることを、急がなくていいと思いたい
- 登場人物の思考が、そのまま声になって流れてくる文体が好き
向いていないのは、恋愛小説にはっきりした告白や結末を求める人。この物語は、気持ちに名前がつくかどうかよりも、名前がつく前の時間そのものを描いている。すっきりした答えを聴き終わりに欲しい人には、もどかしく感じられるかもしれない。
近い気分の一冊
簡単な言葉には収まらない自分を抱えているという意味では、汐見夏衛の『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』も近い。あちらは「好き」という一言では片付かない感情を巡る旅の話で、こちらは「優等生」という型を演じ続けてきた自分を、少しずつ脱いでいく話だ。名前をつけられない感情も、演じてきた自分も、どちらも簡単には言葉にならないという点で重なる。『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』オーディブル感想
同じ住野よるの作品なら、『この気持ちもいつか忘れる』も近い。退屈な毎日を送る高校生が、別の世界から来たらしい少女と出会う、著者初の恋愛長編だ。自分の気持ちに名前をつけられないまま、少しずつ心が動いていく過程が、こちらとはまた違う形で描かれている。『この気持ちもいつか忘れる』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開いたときに何が見えるかを確認してほしい。「聴き放題で聴く」と出ていればその場で再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけを見てほしい。『恋とそれとあと全部』のページを開く
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今夜は、名前をつけられずにいる自分の気持ちを、そのままにして聴いてほしい。

コメント
コメント一覧 (2件)
[…] 同じ住野よるの作品なら、『恋とそれとあと全部』も近い。あちらは片思いの相手との数日間の旅の中で、「好き」の一言に収まらない気持ちを描く話で、こちらは退屈な日常に現れた少女との出会いを通じて、心が動くことそのものを描く話だ。どちらも、自分の気持ちに名前をつけられないまま進んでいく。『恋とそれとあと全部』オーディブル感想 […]
[…] 同じ住野よるの作品なら、『恋とそれとあと全部』も近い。あちらは片思いの相手と旅をしながら、「好き」の一言に収まらない気持ちを抱える話で、こちらは5人がそれぞれの想いを隠したまま、同じ教室で毎日を過ごす話だ。どちらも、気持ちに名前をつけて口に出す一歩手前で揺れている。『恋とそれとあと全部』オーディブル感想 […]