もう心が動くことなんてないと、いつからか思い込んでいる。若い頃のような感情の波は、分別と引き換えに手放したはずだった。日々は穏やかで、それで十分だとも思っている。
厄介なのは、その思い込みが本当かどうか、自分でも確かめようがないことだ。動かないように蓋をしてきただけかもしれないし、本当にもう動かないのかもしれない。確かめる機会自体が、大人になるほど減っていく。
桜木紫乃の『情熱』を聴くと、その蓋の下にまだ何か残っていることに気づかされる。40年ぶりに再会した同級生、条件つきで暮らしを共にする男女、過去を明かさない相手に惹かれていく小説家。静かに生きてきたはずの大人たちの中に、消えていなかったものが見えてくる。
5時間5分。今夜は、収録された6編のうち、気になる一編だけでいい。
どんな話か
40年ぶりに再会したカメラマンとスタイリスト、「ボケたら関係解消」を条件に生活を共にする70代のホストと美容師、過去を明かさない女性大学教授に惹かれる遅咲きの小説家。静かに年を重ねてきた大人たちを描いた6編の短編集。直木賞受賞作『ホテルローヤル』の著者による、抑えた筆致の連作だ。表題作以外の話も、それぞれ違う年代、違う関係の距離感を通じて、同じ問いに戻ってくる構成になっている。
声で聴くとどう変わるか
ナレーターは遠藤純平。感情を大きく揺らさない大人の登場人物たちを、抑揚を抑えた語り口で読み進めていく。文字で読むと行間に隠れがちな心の動きが、声になると、間の取り方のわずかな変化として聴き取れる。声を荒げる場面がほとんどないからこそ、まれに滲む本音の重みが際立つ。
5時間5分。通勤の往復なら4日、就寝前に1編ずつ聴くなら1週間ほどで読み終えられる長さだ。短編ごとに登場人物も舞台も変わるので、今夜はこの一編だけと決めて聴いても、次の夜に迷わず別の話へ移れる。
分別の奥にあるものが見える場面
手が止まったのは、長く連れ添ってきたわけではない相手同士が、それでも互いの老いを見届けようとする場面だった。恋愛と呼ぶには静かすぎる感情だが、そこに確かな熱が残っている。分別を装いながら、本当は誰かを気にかけ続けている大人たちの姿が、丁寧にすくい取られている。
再会した相手を前に、言葉より先に態度がぎこちなくなる描写も印象に残る。何十年経っても、心が動く瞬間の不器用さだけは変わらないのだと気づかされる。若い頃なら勢いで踏み込めた距離を、大人になった分別が押しとどめる。その葛藤ごと、登場人物たちの人生として描かれているのが、この短編集の芯にある。
いま聴くなら『情熱』から。6編のうち、どれか一つは自分の年齢や境遇と重なるはずだ。
こんな人に向いている
- もう心が動くことはないと、どこかで思い込んでいる
- 静かな大人たちの再会や本音を描いた小説が好き
- 短編を一つずつ、区切りながら聴き進めたい
- 派手な展開より、抑えた筆致の余韻を味わいたい
向いていないのは、はっきりした恋の結末を求める人。この短編集は感情が燃え上がる瞬間よりも、抑えてきたものが少しだけ動く瞬間を描くことに重きを置いている。
近い気分の一冊
当たり前だと思っていたものの重みに、あとから気づくという意味では、汐見夏衛の『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』も近い。あちらは日々にいら立っていた中学生が70年前にタイムスリップし、守られてきた日常のありがたさを知る話で、こちらは分別を装って生きてきた大人たちが、まだ心が動くのだと気づく話だ。気づくタイミングは違っても、当たり前だと思っていたものの奥にまだ熱が残っているという発見は重なる。『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』オーディブル感想
もっと若い世代の再会なら、ボイスドラマ『2回目のファーストキス』も近い。流されて生きてきた女性が帰郷し、幼なじみとの再会をきっかけに、自分で選んだはずの恋を見つめ直す話だ。1時間27分と短いので、短編を一つ聴き終えたあとの夜にも向いている。『2回目のファーストキス』オーディブル感想
もっと短く、静かな一本なら、ボイスドラマ『春にとける』も近い。誰かの書いた言葉が別の誰かに届くという小さな出来事を、2時間4分で聴かせる作品だ。動くのは心の中だけで、熱は小さい。けれど、まだ心が動くのだと気づく静かな瞬間は、こちらと重なる。『春にとける』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開いたときに何が見えるかを確かめてほしい。「聴き放題で聴く」と出ていればその場で再生できる。対象は入れ替わるので、購入の前に表示だけを見てほしい。『情熱』のページを開く
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今夜は、まだ動く心が自分の中にも残っているか、少しだけ確かめながら再生してほしい。

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 昔を知る相手との再会で、自分の中の何かが動き出すという意味では、桜木紫乃の『情熱』も近い。あちらは年を重ねた大人たちの再会や本音を描く短編集で、こちらは帰郷した女性が幼なじみと再会し、恋の記憶を揺さぶられる話だ。世代はまるで違っても、過去を知る人の前で今の自分が揺らぐ感覚は同じだ。『情熱』オーディブル感想 […]