『そのときは彼によろしく』オーディブル感想|昔の友を想う夜に

子どもの頃にいちばん近くにいた人を、大人になった今も心のどこかで探している夜

連絡先も知らない。今どこに住んでいるかも分からない。それでも、子どもの頃にいちばん近くにいた誰かの顔を、ふとした拍子に思い出す。大人になってからできた友人とは、何かが違ったと分かっている。

この気持ちは、懐かしさと呼ぶには少し重い。会いたいのかと聞かれると、そうとも言い切れない。会ったところで、あの頃の自分たちに戻れるわけではないからだ。だから誰にも話さず、引き出しの奥にしまったままになる。しまったものほど、夜になると重さを増す。

市川拓司の『そのときは彼によろしく』は、その引き出しを静かに開ける物語だ。聴き終えても、離れた誰かが戻ってくるわけではない。ただ、あの頃の時間が今の自分を支えていたことは、はっきり分かる。探していたものの正体に、名前がつく。

再生時間は12時間10分。長いが、今夜必要なのは最初の30分だけ。夜の水草ショップに一人の女性が現れる場面まで聴けば、この物語の空気は伝わる。あとは寝る前に少しずつ進めればいい。

目次

どんな話か

地方都市で小さな水草ショップを営む「ぼく」のもとに、ある夜、求人チラシを手にした美しい女性が現れる。その出会いをきっかけに、少年時代に大切な友人たちと過ごした日々が、少しずつ今につながっていく。映画『ノッティングヒルの恋人』へのオマージュで始まる、ファンタジックな青春ラブストーリーだ。

声で聴くとどう変わるか

朗読は清水咲真。Audible Studios が制作した音声版で、同じ著者の『恋愛寫眞―もうひとつの物語』も同じ声が読んでいる。押しつけのない、やわらかな語りだ。「ぼく」の少し不器用な一人称に、よく馴染んでいる。

文字で読むと、水草や水辺の生き物の描写は読み飛ばしてしまいがちになる。声で聴くと、その細かさがそのまま店の静けさになる。水槽の前で時間が止まっているような感覚が、耳から伝わってくる。この物語の恋は、その静けさの中でゆっくり育つ。急かされないので、聴き手のほうも急がずにいられる。

12時間10分は、通勤の往復で一週間と少し。就寝前に30分ずつなら、三週間ほど付き合える。一晩で追いつく必要はない。少年時代の場面と今の場面が行き来するので、区切りのいいところで止めても迷わない。

少年時代の記憶が、今の場面に重なるところで手が止まった

聴き手として手が止まったのは、少年時代の思い出が語られる場面だった。何でもない放課後や、仲間だけが知っている場所。大きな出来事は起きないのに、その時間がもう戻らないことだけは、語りの温度で分かってしまう。

そして物語は、その記憶を今の出会いに少しずつ重ねていく。どう重なるかは、ここには書かない。ただ、過去を振り返る話だと思って聴き始めると、途中で向きが変わる。その瞬間を、自分の耳で確かめてほしい。

いま聴くなら『そのときは彼によろしく』から。最初の数分で、この語りの距離感が分かる。

こんな人に向いている

  • 子どもの頃の友人を、今でもときどき思い出す
  • 急がずに育っていく恋の話を聴きたい
  • 『いま、会いにゆきます』の空気が好きだった

向いていないのは、現実的な恋愛小説だけを求める人。この物語には、少しだけ現実から浮いた出来事が起きる。そこを受け入れられないと、後半に入り込みにくい。

逆に、長い物語に身を預けるのが好きな人には合う。夜の時間を、何日もかけて同じ場所で過ごす感覚がある。

近い気分の一冊

同じ著者で、同じ清水咲真の声で聴けるなら、『恋愛寫眞―もうひとつの物語』も近い。あちらは大学時代に出会った相手との、ずっと続くと思っていた時間を描く話で、こちらは子どもの頃に分かち合った時間が今につながる話だ。どちらも、過ぎた時間がいまの自分の中に残っていることを確かめさせてくれる。『恋愛寫眞』オーディブル感想

今夜から聴くには

作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『そのときは彼によろしく』のページを開く

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今夜は、夜の店に一人の女性が現れるところまででいい。引き出しの奥にしまってきた誰かの顔を、少しだけ思い出しながら聴いてみてほしい。

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