好きな人には、いちばんいい自分を覚えていてほしい。当たり前のようでいて、これは結構身勝手な願いだ。相手はありのままを見たいと思っているかもしれないのに、こちらが先に「見せたくない」と決めてしまう。
この身勝手さは、自分でも分かっている。分かっていて、それでも隠したい気持ちのほうが強い。正直に見せることが誠実さだと分かっていても、変わっていく自分を見られるくらいなら、距離を置くほうを選んでしまう。相談しても「ありのままを見せればいい」で終わり、そんな単純な話ではないと分かってもらえない。
宇山佳佑の『桜のような僕の恋人』は、この身勝手さを、極端な形で突きつけてくる。美容師の美咲は、人の何十倍もの速さで老いていく難病を発症する。恋人の晴人にだけは、老いていく姿を見せたくないと悩む彼女の姿は、程度の差こそあれ、誰の中にもある感情の輪郭を映し出す。聴き終えても、隠したい気持ちが間違っているとは言い切れなくなる。
再生時間は9時間11分。今夜必要なのは、美咲と晴人が恋人同士になる最初の場面だけでいい。そこから先、何が起きるかが分かる。
どんな話か
美容師の美咲に恋をした晴人は、彼女に認めてもらいたい一心で、一度は諦めたカメラマンの夢を再び目指す。二人は恋人同士になるが、美咲は人の何十倍もの速さで老いていく難病を発症してしまう。
声で聴くとどう変わるか
語りは河西健吾。晴人の一人称は、若さゆえの未熟さと、美咲への想いが高ぶる場面での声の詰まり方が丁寧に読み分けられている。BGMのない静かな朗読なので、間の取り方そのものが感情の深さを伝える作りになっている。
美咲が老いていく過程は、文字で読むより、声のトーンとテンポの変化で感じ取れる。彼女が自分の運命を受け入れ始める場面では、声の抑え方が急に静かになる。その落差が、目で読むだけでは気づきにくい心の動きを耳に残す。
9時間11分。1日1時間ほどで10日前後、通勤の行き帰りに分けて聴くのに向いている長さだ。急いで聴き終えるより、二人の時間の流れに合わせてゆっくり進めたい。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、美咲が自分の変わっていく姿を晴人にだけは見せたくないと悩む場面だ。誰にでも見せられるのに、いちばん見せたい相手にだけ見せられない。その矛盾した感情の描き方に、容赦がない。
この小説がうまいのは、晴人の側にも都合のいい成長を用意しなかったところだ。彼もまた未熟なまま、彼女の変化に向き合うことになる。二人とも完璧に強くなれるわけではない。そのままの状態で、桜のように儚い時間を過ごしていく。
いま聴くなら『桜のような僕の恋人』から。二人が恋人同士になる場面までで、この物語の始まり方が分かる。
こんな人に向いている
- 変わっていく自分を、大切な人にだけは見せたくないと思ったことがある
- 1日1時間ほど、時間をかけて聴きたい
- 号泣する前提で恋愛小説を聴きたい
向いていないのは、医療的な整合性を細かく気にする人。難病の描写は物語のための設定であり、現実の症例をなぞったものではない。
近い気分の一冊
今の自分を誰かにどう覚えていてほしいかという意味では、小坂流加の『生きてさえいれば』も近い。あちらは間に合わなかった恋を手紙で辿り直す話だが、こちらは今まさに進行している変化を、恋人にどう見せるかを問う話だ。時間の向きは違っても、大切な人にどう記憶されたいかという願いは重なる。『生きてさえいれば』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『桜のような僕の恋人』のページを開く
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今夜は二人が恋人になる場面まででいい。そこから先、どちらの気持ちに重ねて聴くかで、この物語の響き方が変わる。

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