『この君なくば』オーディブル感想|帰りを待つしかない夜に

好きな人が遠くで何をしているのか分からないまま、帰りを待つしかない夜

好きな人が、遠い場所へ行ってしまった。仕事なのか事情なのか、詳しいことは聞かされていない。連絡が来ない日が続くと、向こうで何が起きているのかを想像することしかできない。

厄介なのは、待つ側には何の役目もないことだ。追いかける理由も、問いただす立場もない。周りに話せば「信じて待てばいい」と言われる。けれど、信じることと不安にならないことは別のことだ。その違いを説明できないまま、毎日が過ぎていく。

葉室麟の『この君なくば』は、その待つ時間に、背筋を伸ばす理由をくれる。聴き終えても、遠くにいる人が早く帰ってくるわけではない。ただ、待つことは何もしないことではないと分かる。自分の思いに忠実でいることが、ひとつの生き方になると思える。

再生時間は7時間35分。今夜必要なのは、最初の30分だけだ。通勤の往復で1時間ずつなら、1週間とすこしで聴き終えられる。

目次

どんな話か

幕末の小藩・伍代藩。藩士の楠瀬譲と栞は、互いに惹かれ合う仲だった。ところが譲は藩主の密命を受け、京の政情を探りに旅立つ。残された栞の前には、譲を想う気丈な女性・五十鈴が現れる。

声で聴くとどう変わるか

朗読は三好翼。落ち着いた声で、時代小説の硬い言葉を一つずつ置いていく。武家の言葉遣いや藩の名前、京の情勢といった、文字で読むと目が滑りやすい部分も、声で聴くと流れの中で自然に入ってくる。

この作品の登場人物は、思っていることをすぐには口にしない。立場があり、礼儀があり、言えないことが多い。文字で読むと、その抑えた台詞はそっけなく見えることがある。声で聴くと、言葉の手前で一瞬止まる呼吸が聴こえる。言わなかったことのほうが、言ったことより大きく響く。

時代小説を聴き慣れていない人ほど、耳から入るのが向いている。人物の名前と関係が、声の調子で自然に区別できるからだ。最初の数章で人物の顔ぶれがつかめれば、あとは物語の流れに身を任せられる。

7時間35分は、就寝前に30分ずつなら15晩。家事をしながらでも筋は追えるが、譲が京へ向かうあたりからは、手を止めて聴いたほうがいい。章ごとに場面が切り替わるので、途中で間が空いても戻りやすい。

栞の前に五十鈴が現れるところで、手が止まった

聴き手として手が止まったのは、譲が去ったあとの栞のもとに、五十鈴が姿を見せる場面だった。同じ人を想う女性が、目の前にいる。けれど栞は、取り乱すことも、相手を遠ざけることもしない。

その静かな受け止め方に、待つ側の強さがあった。不安がないわけではない。ただ、不安を理由に自分を曲げない。二人の女性がどんな関係になっていくのかは、ここには書かない。それでも、この場面を境に、物語は「待つ話」から「どう生きるかの話」へと少しずつ変わっていく。

恋の行方だけを追う物語ではない。幕末という時代の大きなうねりの中で、それぞれが自分の思いをどう守るのかが描かれる。だからこそ、恋がいっそう清らかに聴こえる。

いま聴くなら『この君なくば』から。冒頭の数分で、この語りの落ち着きが分かる。

遠くにいる人を想い続けている人に向いている

  • 好きな人と、事情があって離れて過ごしている
  • 派手な展開より、抑えた言葉の奥にある気持ちを聴きたい
  • 時代小説に興味はあるが、文字で読むのは身構えてしまう

向いていないのは、恋愛の場面だけを中心に聴きたい人。この作品には、藩の事情や時代の動きを描く場面が多く含まれる。恋は物語の芯にあるが、それを取り巻く世界の話にも時間が割かれている。

ただ、その世界の重さがあるから、二人の思いが軽く見えない。会えない理由が、ただのすれ違いではなく、時代そのものにある。待つしかない状況を抱えている人ほど、栞の姿勢に自分を重ねられる。

近い気分の一冊

古い時代の恋を短く聴くなら、伊藤左千夫の『野菊の墓』も近い。あちらは周りの大人たちの目によって、幼なじみの二人が引き離されていく話だ。こちらは時代の動きが二人を遠ざける。理由は違っても、思いを口に出せないまま抱え続ける静けさは同じだ。『野菊の墓』オーディブル感想

同じ幕末の恋を、飛び込んだ側から聴くなら朝井まかての『恋歌』もいい。こちらが遠くの人を待つ話なら、あちらは好きな人のもとへ嫁いだあとの話だ。『恋歌』オーディブル感想

幕末の恋を一晩で聴き終えたいなら、司馬遼太郎の『沖田総司の恋』も近い。1時間の短編で、病の治療に通う先の娘に、沖田総司が淡い想いを抱く話だ。こちらが言葉にしない思いを抱えて待つ話なら、あちらは言葉にしない思いを抱えたまま周りに気づかれてしまう話だ。『沖田総司の恋』オーディブル感想

今夜から聴くには

作品ページを開いて「聴き放題で聴く」と出ていれば、追加の支払いなしでその場で再生できる。対象は入れ替わるので、開いたときの表示だけ見てほしい。『この君なくば』のページを開く

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今夜は、譲が京へ旅立つところまででいい。遠くにいる誰かの顔を思い浮かべながら、静かな語りに耳を預けてみてほしい。

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