職場でも家でも、昔の恋の話はしない。聞かれれば笑って流せる程度の過去として扱っている。それなのに、ふとした曲や季節の匂いで、あの人のことだけが今も少しも古びていないと気づく夜がある。
厄介なのは、もう誰にも話す必要がないことだ。終わったことだし、いまの生活に関係もない。だから相談の形にならない。話さないまま年月が過ぎると、あの恋が本当にあったのかどうかを確かめられる相手もいなくなる。自分の中にしかないものは、自分が黙っていれば、なかったことと同じになってしまう。
朝井まかての『恋歌』は、その黙ってきた時間に重さがあることを教えてくれる。人から見える経歴の奥に、誰にも話してこなかった恋がある。聴き終えても、過ぎた時間は戻らない。ただ、話さずに抱えてきたことも生きてきた証だと、受け止められるようになる。
再生時間は9時間32分。今夜必要なのは、最初の30分だけだ。商家の娘が恋をするところから、物語は静かに始まる。
どんな話か
樋口一葉の師として知られる歌人・中島歌子には、知られざる過去があった。幕末の江戸で商家の娘として育った歌子は、一途な恋を成就させて水戸の藩士に嫁ぐ。しかし夫は天狗党の志士で、やがて内乱が起こり、歌子たち妻子の運命も大きく変わっていく。
声で聴くとどう変わるか
朗読は中村夏緒。この作品のいちばんの聴きどころは、一人の女性の長い時間を、一人の声で通して聴けることだ。娘時代の弾むような恋も、水戸での張りつめた日々も、同じ声が運んでいく。文字で読むと、時代が変わるたびに別の物語へ移ったように感じることがある。声で聴くと、どの場面も同じ人の人生なのだと耳が覚えている。
もうひとつの利点は、歴史の説明が負担になりにくいことだ。水戸藩の内情や天狗党の動きは、文字で読むと名前の多さに目が止まりやすい。耳で聴くと、細かい名前を覚えなくても、語りの緊張で状況の苦しさが伝わってくる。幕末に詳しくなくても置いていかれない。
和歌が物語の芯にあることも、音で聴く理由になる。歌は目で読むより、声に乗ったときに調べが分かる。歌人の話を朗読で聴くのは、この作品にいちばん合った受け取り方だ。
9時間32分は、就寝前に30分ずつなら19晩、通勤の往復1時間なら10日ほど。前半は家事をしながらでも追いやすい。内乱が始まるあたりからは、手を止めて聴く時間を取りたい。
商家の娘が武家の妻になるところで引き込まれた
聴き手として手が止まったのは、歌子が恋を実らせて、江戸から水戸へ嫁いでいくあたりだった。好きな人と一緒になれた。恋の物語なら、ここが幸福の頂点になる。ところがこの作品では、ここからが本当の始まりになる。
娘にとって恋は、相手だけを見ていれば済むものだった。けれど結婚は、相手の背負っている藩や志ごと引き受けることでもある。歌子はそれを知らないまま飛び込んでいく。その若さがまぶしく、聴いているこちらのほうが、少し先を案じてしまう。その先に何が起きるのかは、ここには書かない。
何も知らずに、ただ好きだった。その無防備さが、この物語では長い時間を照らし続ける。昔の恋を抱えている人ほど、この場面の明るさが胸に残る。
いま聴くなら『恋歌』から。最初の数十分の、恋の明るさを覚えておいてほしい。
昔の恋を胸にしまったまま暮らしている人に向いている
- 終わった恋のことを、誰にも話さないまま何年も経っている
- 恋が実ったあとの人生まで描いた物語を聴きたい
- 歴史小説に興味はあるが、文字で読み通す自信がない
向いていないのは、眠る前に軽い恋の話だけを聴きたい人。内乱と投獄が描かれるので、中盤にはつらい場面が続く。心が疲れている夜は、前半の恋の部分までで止めておくのがいい。
近い気分の一冊
同じ幕末の恋なら、葉室麟の『この君なくば』も近い。あちらは遠くへ行った人を待ち続ける話で、こちらは好きな人の側へ飛び込んだあとの話だ。どちらも、時代に動かされながら自分の思いを手放さなかった女性を描いている。『この君なくば』オーディブル感想
長い人生の昔話を、若い聞き手の側から受け取る話なら、吉田修一の『ミス・サンシャイン』もある。6時間35分。引退した映画女優の過去に触れるうち、大学院生の心が動いていく。こちらとは語る側と聞く側が入れ替わる。『ミス・サンシャイン』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開いて「聴き放題で聴く」と出ていれば、その場で再生できる。対象は入れ替わるので、開いたときの表示だけ見てほしい。『恋歌』のページを開く
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今夜は、誰にも話していないあの人のことを少しだけ思い出しながら、江戸の娘の恋が始まる最初の30分を聴いてほしい。

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