いま隣にいる人との関係に、大きな不満はない。それでも、昔つきあっていた人から突然連絡が来る場面を、頭の中で組み立ててしまうことがある。なんと返すか、会うか会わないかまで考えて、そこで我に返る。
この想像は誰にも言えない。言えば、いまの関係を軽んじていることになる。実際には会う気などないのに、想像したという事実だけが後ろめたく残る。しかも、なぜそれを考えたのかが自分でも分からない。相手に未練があるわけではないからだ。
川村元気の『四月になれば彼女は』は、その説明のつかない想像を、12か月かけて分解していく。聴き終えても答えは出ない。ただ、思い出しているのは相手ではなく、あの頃の自分のほうだったと分かる。そこが分かるだけで、後ろめたさは軽くなる。
7時間27分。1日30分で2週間ほど。月ごとに区切られた構成なので、途中で止めても戻りやすい。
どんな話か
精神科医の藤代のもとに、初恋の相手であるハルから手紙が届く。ウユニ塩湖から送られてきたその手紙には、二人が過ごした日々のことが書かれていた。一方で藤代は、1年後に結婚を控えた恋人の弥生と暮らしている。
声で聴くとどう変わるか
語りは細谷佳正。この小説は手紙と現在の生活が交互に置かれる構成で、しかも手紙のほうが圧倒的に瑞々しい。書き手が若いからだ。同じ語り手が、現在の抑制された藤代と、過去から届く弾んだ文章の両方を読む。
この落差が、声だとはっきり出る。文字で読むと文体の違いとして処理される部分が、耳では温度差として届く。現在の藤代の声がどれだけ平坦になっているかは、手紙の声と並べて初めて分かる。何かを失ったという実感が、説明ではなく音量差でやってくる。
もう一つ、この作品は情景描写が長い。ウユニ塩湖、インド、季節の移り変わり。目で読むと飛ばしたくなる箇所が、朗読だと飛ばせない。結果として、その景色の中に置かれる時間が長くなる。この作品に関しては、飛ばせないことが利点として働く。
7時間27分。月ごとに章が変わるので、1日1章という聴き方が合っている。急いで最後まで行くより、こちらのほうが12か月という時間の長さを体で受け取れる。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、藤代が弥生に対して何も悪いことをしていないと確認する場面だ。実際、彼は何もしていない。手紙を受け取っただけで、返事すら出していない。
それでも、何かが起きている。心が動いた事実は消せない。行動していないから潔白だ、という理屈が通らないことを、この小説は静かに示す。ここが厳しい。読んでいる側にも同じ判定が及ぶからだ。
そして手紙の文体が、途中で少し変わる。書き手の状況が変化したことが、内容ではなく書き方から伝わる。声で聴くと、その変化に気づくのが一拍早い。読点の位置と息継ぎが先に変わるからだ。
いま聴くなら『四月になれば彼女は』から。最初の手紙が読まれるところまでで、この小説の温度が分かる。
こんな人に向いている
- 昔の恋人から連絡が来る場面を想像したことがある
- いまの関係に不満はないが、何かが足りない気がしている
- 情景描写の長い小説を、声に運ばれながら聴きたい
向いていないのは、主人公の迷いに苛立つ人。藤代は最後まではっきりしない。決断を先延ばしにする姿を7時間半見せられるので、そこに耐えられないと長く感じる。
近い気分の一冊
手紙という形式が効いたなら、宮本輝の『錦繍』へ。あちらは全編が往復書簡で、しかも十年前に終わった関係を扱う。こちらの手紙が一方通行なのに対し、あちらには返事がある。返事が来る場合と来ない場合で、書く言葉がどう変わるかが分かる。『錦繍』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『四月になれば彼女は』のページを開く
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今夜は最初の手紙が読み上げられるところまで。その声を聞いたあと、自分の携帯を一度見てしまう。

コメント
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[…] この終わり方が残ったなら、川村元気の『四月になれば彼女は』へ。あちらは離れた相手のほうから手紙が届く。届いたところで何かが変わるわけではないのだが、「連絡が来たら」という想像に一度だけ形を与えてくれる。『四月になれば彼女は』オーディブル感想 […]