『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』オーディブル感想

自分の気持ちに嘘をつくのが上手くなった夜

本当はそこまで欲しくない服を、似合うと言われたから買う。本当は行きたくない集まりに、断る理由が見つからないから行く。小さな嘘を積み重ねるのが上手くなって、その分だけ自分が何を好きだったか思い出せなくなる。

この状態の厄介なところは、困っていないことだ。誰にも迷惑をかけていないし、生活も回っている。だから相談する対象にもならない。ただ、ふとした瞬間に、自分の意見を最後にはっきり言ったのはいつだったかと考えてしまう。

尾形真理子の『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』は、その「上手くなってしまった嘘」を、服を選ぶ場面から解いていく短編集だ。聴き終えても性格は変わらない。ただ、次に何かを選ぶとき、一拍だけ長く考えるようになる。

4時間42分。このブログで扱った中でいちばん短い。一編ずつ独立しているので、通勤の片道で1話ずつ、5日で聴き終えられる。

目次

どんな話か

路地裏のセレクトショップに、恋愛で行き詰まった女性たちが訪れる。年下に片思いしている人、元恋人の披露宴でスピーチを頼まれた人。店のオーナーとのやり取りを通して、それぞれが自分に似合う一着を探していく。六編の連作短編。

声で聴くとどう変わるか

語りは松本穂香。俳優の朗読で、声がとても軽い。この作品にはそれが合っている。登場人物たちは深刻な状況にいるのだが、本人はそれを深刻に語らない。強がりが先に立つ。その強がりを、力の入った声で読まれると嘘くさくなる。軽い声だから、下にあるものが逆に見える。

連作短編なので、一話ごとに主人公が替わる。同じ語り手が別の女性を演じ分けるのだが、大げさな声色の変化はない。トーンの微差だけで切り替わる。目で読むときは名前で判別するところを、耳では話し方の速度で判別することになる。この距離の取り方が、作品の抑制と噛み合っている。

4時間42分。一編およそ45分なので、通勤の片道にちょうど収まる。区切りが自然なので、途中で止めても話が途切れません。長編を聴き続ける習慣がまだ無い段階で始めるなら、この分量から入るのがいちばん失敗しにくい。

どの場面で引き込まれたか

手が止まるのは、服を選ぶ場面そのものではない。その前に、登場人物が「べつに欲しくない」と言う瞬間だ。本当は欲しい。欲しいと言えないから、先に要らないことにしている。

この防御の仕方に見覚えがある人は多いと思う。手に入らなかったときに傷つかないよう、欲しがる前に諦めておく。合理的だし、たいてい上手くいく。上手くいくから、何年も続けてしまう。

この短編集が良いのは、そこを責めないところだ。強がりを剥がして反省させる話にはならない。ただ、鏡の前に立たせる。服を選ぶという行為が、そのまま自分の希望を口に出す練習になっている。うまい構造だと思う。

いま聴くなら『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』から。一編目で全体の温度が分かる。

こんな人に向いている

  • 欲しいものを、欲しいと言う前に諦める癖がある
  • 重い読後感を持ち帰りたくない
  • 1話ずつ区切って聴ける短編がいい

向いていないのは、深く沈みたい人。この作品は読者を底まで連れて行かない。後味を良いところで着地させる。それが物足りなく感じる夜もある。そういう夜は、もっと重いものを選んだほうがいい。

近い気分の一冊

もう少し痛いものが欲しいなら、角田光代の『愛がなんだ』へ。あちらは強がりを剥がしたあとの姿を、逃げ場なしで書いている。こちらが「言えるようになる」話だとすれば、あちらは「言ってしまった人」の話だ。順番に聴くと落差が効く。『愛がなんだ』オーディブル感想

連作短編で女性の気持ちの機微を追いたいなら、青山美智子の『チョコレート・ピース』へ。あちらはチョコレートという小道具を軸に、24の場面が交互に視点を明かしていく。試着室で自分に嘘をつく瞬間と、チョコレートを差し出す瞬間。どちらも、本人にとっては小さすぎて誰にも言えない出来事だ。『チョコレート・ピース』オーディブル感想

今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。

今夜から聴くには

作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』のページを開く

Audible を使うのが初めてなら、最初の30日間は無料で試せる(対象は執筆時点)。Audible の無料体験を見る

今夜は一編だけでいい。45分で終わって、明日の服を選ぶときに少しだけ手が止まる。

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