SNSで、昔つきあっていた人の名前を検索したことがある。見つけて、プロフィール写真を開いて、何もせずに閉じる。連絡を取りたいわけではない。ただ、その人がいま元気に暮らしているかどうかだけ知りたかった。
この行動は説明しにくい。未練とも違うし、後悔とも少し違う。あの頃の自分がまだどこかに残っている気がして、それを確かめに行っているだけだ。人に話すと「引きずってるね」で片付けられるが、そういう単純なものではない。名前がないから、そのまま置いてある。
燃え殻の『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、その置きっぱなしの感情の形をなぞる。聴き終えても連絡は取らないし、あの頃にも戻らない。ただ、戻れないと分かっている状態に、ちゃんと居場所ができる。
5時間15分。このブログで紹介してきた中でいちばん短い部類で、通勤の往復なら3日で終わる。長い作品に手を出す前の1本目にも向いている。
どんな話か
主人公はSNSで、17年前につきあっていた女性を見つけて友達申請を送る。その瞬間から、1990年代末の渋谷で過ごした日々の記憶が溢れ出す。物語は現在と過去を行き来しながら、二人が何を持っていて何を失ったのかを辿っていく。
声で聴くとどう変わるか
語りは草尾毅。この小説は一人称の回想で、しかも語り手はもう若くない。同じ出来事を、経験した本人と、それを思い出している本人の二重の声で語る形になっている。文字だとその二層が平たく並ぶが、声になると、思い出している側の温度のほうが前に出る。
効いてくるのは、当時の会話が再現される場面だ。台詞そのものはたわいない。飲み屋の話、仕事の愚痴、深夜の移動。それを中年の声で読まれると、たわいなさが痛みに変わる。あの会話がもう二度と起きないことを、聞いている側は先に知っているからだ。
オーディオブック版には、映像化した二村ヒトシ監督との1時間の対談が特典として入っている。本編のあとに続けて聴くと、作者が何を書こうとしていたのかが分かる。これは紙の本には無い部分で、耳で聴く理由がひとつ増える。
5時間15分。時系列が入れ替わるので、ながら聴きよりは、移動中に集中して聴くほうが迷わない。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、二人が別れる場面ではなかった。何でもない日の描写だ。まだ何も失っていない時期の、ただ一緒にいるだけの時間。事件は起きない。
その場面が効くのは、読んでいる側だけが結末を知っているからだ。登場人物は自分たちがいま何を持っているか気づいていない。気づいていないことが、聞いていて苦しい。そしてたぶん、自分の20代もそういう構造をしていた。
世紀末の渋谷という舞台も、単なる懐かしさで置かれていない。まだ何にでもなれると全員が思っていた時期の空気が、そのまま登場人物の判断の甘さに繋がっている。時代の描写が人物の説明になっている。
いま聴くなら『ボクたちはみんな大人になれなかった』から。最初の友達申請の場面で温度が分かる。
こんな人に向いている
- 昔の知り合いの名前をSNSで検索したことがある
- 1990年代後半に10代か20代を過ごした
- まず短い作品でオーディオブックを試したい
向いていないのは、物語に推進力を求める人。事件らしい事件は起きず、思い出が順不同に並ぶだけの時間が続く。同世代でないと、その並びに乗れない可能性もある。
近い気分の一冊
この感覚が分かるなら、佐藤正午の『月の満ち欠け』へ。あちらはもう会えない人を、物語の仕掛けを使って呼び戻す話だ。こちらは呼び戻さない。SNSで見つけられる距離にいるのに、会わない。同じ喪失でも、手の届き方が違う。『月の満ち欠け』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『ボクたちはみんな大人になれなかった』のページを開く
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今夜は最初の30分だけでいい。渋谷の街が動き出したところで、自分の20代のほうを思い出しはじめる。

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