友人の相談には的確なことが言える。同僚の愚痴にもうまく相槌が打てる。それなのに、いちばん伝えたい相手にだけは、何を書いても言葉が違う気がして、結局送れないままになる。
不思議なのは、話す能力が足りないわけではないということだ。他人に対しては饒舌でいられるのに、その人のことになると急に慎重になる。相談すれば「素直に言えばいい」と言われるが、それができないから困っているのに、その助言はいつも一周遅れてくる。
森見登美彦の『恋文の技術』を聴くと、この不器用さに笑いながら付き合うことになる。能登の実験所に飛ばされた大学院生・守田一郎は、文通修行と称して周囲の人々に手紙を書きまくる。相手は家庭教師先の少年から作家仲間までさまざまだが、本当に想いを伝えたい相手にだけは、なぜか筆が止まる。聴き終えても、伝えられない気持ちがすぐに晴れるわけではない。ただ、その足踏みごと少し愛おしく思えるようになる。
再生時間は8時間37分。今夜必要なのは、一郎が手紙修行を始める最初の数通だけでいい。彼の書きっぷりの癖が分かれば、この先が楽しみになる。
どんな話か
京都から能登の実験所に飛ばされた大学院生・守田一郎は、文通修行と称して京都の仲間や家庭教師先の少年、作家仲間などに手紙を書きまくる。誰にでも達者な文章を送れるのに、本当に想いを伝えたい相手にだけは、うまく書けないまま時間が過ぎていく。
声で聴くとどう変わるか
語りは高城享。書簡体小説なので、手紙の文面がそのまま朗読される構成になっている。一郎の凝った言い回しや大げさな比喩が、声になるとより一層おかしみを増す。文字で読むと持って回った文章に見える部分が、耳で聴くと本人の照れ隠しとして伝わってくる。
宛先ごとに一郎の文体がわずかに変わる場面も、朗読だと分かりやすい。相手との距離感によって言葉選びが変わることが、声のトーンの違いとして自然に耳に入ってくる。誰に対しても本音を出し切れていない一郎の性格が、宛先を変えるたびに浮かび上がる構成になっている。
8時間37分。手紙が一通ずつ独立した章のように進むので、通勤や家事の合間に区切りながら聴くのに向いている。一気に聴くよりも、数日おきに一通ずつ受け取る感覚で聴くほうが、この作品の書簡体らしさが生きる。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、一郎が本当に書きたい相手への手紙を、何度も書き直しては送らずに終える場面だ。他の相手には勢いよく書けるのに、ここでだけ言葉が急に慎重になる。その落差に、覚えのある人は多いと思う。
この小説がうまいのは、一郎の不器用さを情けなく描きながらも、笑い飛ばして終わらせないところだ。書けない理由を彼自身がいくつも並べるが、その理屈っぽさの奥に、傷つくことへの単純な怖さが透けて見える。
もうひとつ、周囲の人々からの返信が届く場面も味わい深い。一郎の大げさな手紙に対して、拍子抜けするほど短い返事が返ってくることがある。そのすれ違い自体が、この作品のユーモアの核になっている。
いま聴くなら『恋文の技術』から。一郎が最初の一通を書き始める場面までで、この文体の癖がつかめる。
こんな人に向いている
- 本当に伝えたい相手にだけ言葉が出てこない自覚がある
- 重い恋愛小説より、笑いながら聴ける片思いの話がいい
- 手紙形式の小説を、声で聴いてみたい
向いていないのは、はっきりした結末をすぐに求める人。一郎の恋文修行はまわり道の連続で、なかなか核心に近づかない。そのじれったさを楽しめるかどうかで印象が変わる。
近い気分の一冊
報われない片思いという意味では、角田光代の『愛がなんだ』も近い。あちらは想いを伝えることそのものより、伝わらない相手にどう向き合うかに焦点がある。伝える手前で止まる一郎と、伝えたあとも変わらない状況に留まり続けるテルコ。どちらも、片思いのかたちの一つとして読める。『愛がなんだ』オーディブル感想
名前のつけられない関係という意味では、新海誠の『言の葉の庭』も近い。あちらは手紙という手段すら持たず、雨の日に会うだけの時間を重ねる。書けば伝わるのに書けない一郎と、そもそも関係に名前がない孝雄と雪野。どちらも、片思いを言葉にする手前で立ち止まっている。『言の葉の庭』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『恋文の技術』のページを開く
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今夜は最初の一通まででいい。一郎の書きっぷりに、たぶん覚えのある照れくささを見つけることになる。

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 言葉にできない片思いという意味では、森見登美彦の『恋文の技術』も近い。あちらは書けば伝わる手紙という手段を持ちながら本当の相手にだけ書けない話で、こちらは会う手段はあっても関係に名前がつけられない話だ。伝える方法がある片思いと、名前がない片思い。並べて聴くと、片思いの形の違いが見えてくる。『恋文の技術』オーディブル感想 […]