誰かを好きだと自分でも認めてしまった瞬間から、日々の中でその人の存在感だけが不釣り合いに大きくなっていく感覚がある。会う予定のない日でも、その人が今どこで何をしているかを、無意識に数えてしまう。
厄介なのは、その気持ちに理由がないことだ。特別なことをされたわけでも、印象的な言葉をかけられたわけでもないのに、気づけばもう好きになっている。「好きになった理由」を聞かれても答えられないから、誰かに相談しても「じゃあやめれば」としか返ってこず、片付けようがない。
江國香織の『東京タワー』を聴くと、恋に落ちることは選べるものではないという前提に、少しだけ楽になる。東京タワーの見えるマンションに母親と暮らす大学生の透は、3年間想い続けてきた年上の人妻・詩史への気持ちに、理由をつけようとしない。聴き終えても、その気持ちが正しかったのかは分からないままだ。それでも、選べなかったことを責めなくてよくなる。
8時間4分あるが、透が詩史と出会う場面までなら、今夜の30分で聴ける。
どんな話か
東京タワーの見えるマンションに母親と二人で暮らす大学生の透は、3年前から年上の人妻・詩史への想いを抱き続けている。一方、親友の耕二も、既婚女性の喜美子に夢中になっていく。恋の形も距離もまったく違う二組が、東京タワーが見下ろす街で同時に進んでいく。物語は透の視点を軸にしながら、時おり耕二たちの様子も映し出し、街全体でいくつもの恋が同時に進んでいることを感じさせる。映画やドラマにもなった、江國香織の代表作のひとつでもある。
声で聴くとどう変わるか
ナレーターは坂内愛。透の一人称で進む物語なので、詩史や耕二たちの言葉は、すべて透というフィルターを通して聴くことになる。感情を声高に説明しない透の性格に合わせた、抑えたトーンの朗読が続く。文字で読むと素っ気なく映る台詞も、声になると間の取り方ひとつで温度が変わって聞こえてくる。
8時間4分。一日30分なら3週間弱、通勤の往復なら2週間ほど。序盤は透の日常と詩史との距離感を描く時間なので、無理なく聴き進められる。透と耕二、二組の恋がどちらも同時進行で語られる構成なので、どちらの声を聴いているのかを意識しながら進めるとより深く入り込める。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、詩史が「恋はするものじゃなく、おちるものだ」と口にする場面だ。透はその言葉に納得しながらも、自分の気持ちに説明をつけられないもどかしさを抱え続ける。理由を探すことをやめた瞬間の透の静けさが、声の間だけでよく伝わってくる。誰かに肯定してもらう必要もない代わりに、誰かに否定される怖さも引き受けている。
この作品がうまいのは、透の恋を「間違っている」とも「正しい」とも断定しないところだ。年上の人妻への想いという、簡単には肯定できない関係を、説教にも美化にもせず、ただ透の視点だけで描いている。周囲の誰かがその恋を止めに来ることもなければ、背中を押してくれることもない。透は最後まで、自分ひとりでその気持ちを持て余し続ける。
いま聴くなら『東京タワー』から。透が詩史と出会うところまでで、この物語の温度が分かる。序盤の空気だけでも、この恋がどんな速度で進んでいくのか見えてくる。
こんな人に向いている
- 好きになった理由を、誰かに説明できずにいる
- 報われるかどうかより、その気持ちの手触りを聴きたい
- 年上の相手への想いを、誰にも言えずに抱えている
- 東京という街の空気ごと、恋愛小説として味わいたい
向いていないのは、恋愛の結末に分かりやすい決着を求める人。透の恋は、聴き終えても白黒がつく話ではない。誰かを断罪してすっきりしたい夜には、あまり向いていない。
近い気分の一冊
「好き」という言葉だけでは説明しきれない気持ちを描くという意味では、住野よるの『恋とそれとあと全部』も近い。あちらは片思い中の相手との4日間の旅を通して、恋という言葉に収まりきらない感情を丁寧にすくい上げていく。『東京タワー』が理由のない恋にそのまま落ちていく話であるのに対し、こちらは名前をつけることを急がずにいる話になっている。『恋とそれとあと全部』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『東京タワー』のページを開く
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今夜は透が詩史と出会うところまででいい。そこから先、この気持ちにどう向き合っていくのかが気になってくる。

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