『僕が愛したすべての君へ』オーディブル感想|並行世界の夜に

今とは違うどこかで、もっと幸せな自分がいるかもしれないと想像してしまう夜

今の生活が悪いわけではない。それでも、あのとき別の選択をしていたら、今とは違う場所で、違う誰かともっと幸せに暮らしている自分がいるかもしれないと想像してしまう夜がある。

この想像は口に出しにくい。言えば、今の生活や今そばにいる人を否定しているように聞こえるからだ。だから誰にも言わないまま、存在しないもう一つの人生と、今の人生を心の中でこっそり比べてしまう。比べたところで、答えは出ない。

乙野四方字の『僕が愛したすべての君へ』は、その想像を実際に形にした物語だ。少し違う並行世界が実証された時代、高崎暦はクラスメイトの瀧川和音に声をかけられる。彼女は別の世界から来ており、そこでの暦とは恋人同士だったのだという。聴き終えても、もう一つの人生のほうが正解だったとは言い切れない。ただ、今の人生を選び直す理由を、この作品はそっと差し出してくる。

再生時間は6時間25分。今夜必要なのは、和音に声をかけられる最初の場面だけでいい。

目次

どんな話か

人々が少しだけ違う並行世界の間で揺れ動いていることが実証された時代。母と暮らす高校生の高崎暦は、ある日クラスメイトの瀧川和音に突然声をかけられる。彼女は「85番目の世界」から移動してきており、そこでの暦と和音は恋人だったのだという。

声で聴くとどう変わるか

ナレーターは石黒千尋。暦の一人称で進む物語なので、「もう一つの世界の自分」という現実離れした設定を、声の実在感が支えている。文字だけなら設定として処理してしまいそうな部分が、声で聴くと本当に隣にその人がいるという説得力に変わる。

Audible Studios制作のオーディオブックオリジナル作品で、6時間25分というのは1日で聴き切れる長さでありながら、並行世界という設定を消化するのに十分な尺でもある。通勤の行き帰りで2、3日あれば聴き終えられる。

もう一つの人生を意識する場面

手が止まったのは、和音が語る「85番目の世界」の暦について聞かされる場面だった。もう一人の自分が、別の場所で別の選択をして生きている。それを聞かされた暦の反応は、羨望でも否定でもない、もっと複雑なものだった。

この作品が誠実なのは、もう一つの人生を「理想の人生」として描かないところだ。並行世界の暦にも、その世界なりの事情がある。今の自分の人生と比べて、単純にどちらが幸せかを競わせない。

いま聴くなら『僕が愛したすべての君へ』から。和音に声をかけられる場面まで聴けば、この設定の手触りが分かる。

こんな人に向いている

  • 今とは違う選択をした自分を、ふと想像してしまうことがある
  • SF設定を通した恋愛小説が好き
  • 1日で聴き切れる長さの作品を探している

向いていないのは、並行世界という設定そのものを受け入れにくい人。この作品は科学的な説明よりも、もう一人の自分という前提を先に受け入れることを求めてくる。

この物語には、同じ設定を高崎暦とは別の視点から描く対の作品『君を愛したひとりの僕へ』もある。あわせて聴くと、一つの並行世界の出来事が、二人の人生でそれぞれ違う重さを持っていたことが分かる。

近い気分の一冊

選ばなかった人生を考えてしまうという意味では、小坂流加の『余命10年』が近い。あちらは残された時間の中で恋を諦めるという選択の話で、こちらは今の自分ではない自分が別の場所で恋をしているかもしれないという想像の話だ。どちらも、選ばなかった側の人生に思いを馳せる夜に合う。『余命10年』オーディブル感想

対になる『君を愛したひとりの僕へ』は、父と暮らす暦が研究所で出会った少女と惹かれ合い、親の再婚によって引き離されていく話だ。同じ石黒千尋の声で、選ばなかった側の人生を聴ける。『君を愛したひとりの僕へ』オーディブル感想

今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。

今夜から聴くには

作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『僕が愛したすべての君へ』のページを開く

Audible を使うのが初めてなら、最初の30日間は無料で試せる(対象は執筆時点)。Audible の無料体験を見る

今夜は和音に声をかけられる場面まででいい。もう一つの人生を提示されたとき、自分ならどう答えるかを考えながら聴くことになる。

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