子どもの頃は、好きなものを好きだとまっすぐ言えた。何になりたいかと聞かれれば、迷わず答えられた。それがいつからか、答える前に周りの顔色を見るようになっている。
厄介なのは、それを失った日が思い出せないことだ。何かを諦めた瞬間があったわけではない。少しずつ、目が曇っていった。だから取り戻し方も分からない。誰かに話しても「大人になったんだよ」で片付けられて、話はそこで終わってしまう。
市川拓司の『永遠に解けないパズル』は、まだ目が曇る前の少年が、ひと夏に出会った少女のことを語る物語だ。聴き終えても、あの頃の自分に戻れるわけではない。ただ、自分が何を見ていたのかは思い出せる。曇ったのは目のほうで、見ていたものが消えたわけではないと分かる。
再生時間は7時間34分。今夜必要なのは最初の20分だけでいい。本屋で立ち読みをしていた少年が、肩を叩かれて振り返るところまで聴けば、この夏の始まり方が分かる。
どんな話か
映画の脚本家を夢見る少年ジロは、夏休みの初日から、駅前の本屋で分厚い翻訳本を少しずつ立ち読みしていた。ある日その肩を叩いたのは、同じクラスなのに一度も口をきいたことのない人気者の少女、モモだった。彼女がジロに頼んできたのは、彼女自身の伝記を書くことだった。
声で聴くとどう変わるか
朗読はケンコー。物語は「ぼく」の一人称で進むので、聴き手は最初から最後まで、ジロのすぐ隣にいることになる。少年の照れや強がりが、語りの声を通して等身大に届いてくる。
文字で読むと、少年の回想は少し距離を置いて読める。声で聴くと、その距離が縮まる。脚本家を夢見る少年が自分の夏を語っているのだから、ひとつの脚本の読み合わせを隣で聴いているようにも感じられる。
この物語の芯には「伝記を書く」という行為がある。誰かの人生を聞き取り、言葉にして残す。それを耳で受け取る形式は、物語の中身とよく噛み合っている。モモが語ることを、聴き手もジロと同じ位置で聞き取っていく。
7時間34分は、通勤の往復で1時間ずつなら一週間と少し。就寝前に30分ずつなら、半月ほどで聴き終える。夏休みの日記を一日ずつめくるように、少しずつ進めるのが合う。
肩を叩かれて振り返る場面で、手が止まった
聴き手として手が止まったのは、冒頭、立ち読みに没頭していたジロが肩を叩かれる場面だった。本屋の主人に見つかったと思って、恐る恐る振り返る。そこにいたのは、自分とは縁がないと思っていた少女だった。
誰かの人生が、思いがけない方向から肩を叩いてくる。その一瞬の驚きが、物語全体の入口になっている。モモがなぜジロに伝記を頼んだのか、この夏がどこへ向かうのかは、ここには書かない。題名の「解けないパズル」が何を指すのかも、聴きながら確かめてほしい。
いま聴くなら『永遠に解けないパズル』から。最初の場面で、ジロの語り口に馴染めるかどうかが分かる。
目が曇ったと感じている人に向いている
- 子どもの頃のほうが、物事がよく見えていた気がする
- 夢を口にすることに、いつの間にか照れるようになった
- 『いま、会いにゆきます』や『そのときは彼によろしく』の空気が好きだった
向いていないのは、大人の恋愛の駆け引きを聴きたい人。語り手は少年で、恋もまだ名前のつかない手前のところから始まる。単行本『MM』を改題した作品なので、そちらで読んだことがある人は内容が重なる。
近い気分の一冊
同じ市川拓司の『そのときは彼によろしく』も、少年時代に分かち合った時間を描いた話だった。あちらは大人になった「ぼく」が過去と今をつなぐ物語で、こちらは少年のジロがその夏のただなかを語る物語だ。並べて聴くと、同じ著者が子どもの時間をどれほど大切に描いてきたかが分かる。『そのときは彼によろしく』オーディブル感想
今夜からジロの夏を聴くには
作品ページを開いて「聴き放題で聴く」と出ていれば、追加の支払いなしでその場で再生できる。対象は入れ替わるので、開いたときの表示だけ見てほしい。『永遠に解けないパズル』のページを開く
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今夜は、ジロが肩を叩かれて振り返るところまででいい。子どもの頃にまっすぐ見ていたものを、ひとつだけ思い出しながら聴いてみてほしい。

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