部屋に帰って、鍵を置いて、気づけば今日は誰ともまともに話していない。仕事のやりとりはあった。けれど、声を交わしたと言える会話は思い出せない。
厄介なのは、それが寂しいと呼ぶほどの出来事ではないことだ。誰かに電話するほどの用事もない。重たい小説を開く元気も残っていない。ただ、静かすぎる部屋に、誰かの話し声が少しだけほしい。名前のつかない欲しさなので、自分でもどう満たせばいいのか分からない。
中澤日菜子の『一等星の恋』は、その夜にちょうどいい温度の一冊だ。8人の声が入れ替わりながら、7つの恋を語っていく。聴き終えても、明日誰かと話す予定が増えるわけではない。ただ、部屋の静けさが、少しだけ怖くなくなる。
全体は9時間22分。長く見えるが、7編の短編集なので1編ずつ区切れる。今夜必要なのは、最初の1編だけだ。
どんな話か
星や天体をキーワードにした、7編の恋愛短編集。どの話も、星をひとつの手がかりに、誰かを想う人の姿を描いている。思わず笑ってしまう場面と、少し涙ぐむ場面が、交互にやってくる。
声で聴くとどう変わるか
ナレーターは三宅健太、阿保まりあ、南波ゆき、多田啓太、関山美沙紀、川上ひろみ、青山吉能、駒田航の8人。一人が声色を変えて全員を演じ分けるのではなく、複数の声が登場人物を受け持っている。朗読というより、ラジオドラマに近い聴き心地だ。
この作品の持ち味は、生き生きとした人物と、現実にありそうな会話のやりとりにある。文字で読むと、会話は目で追う情報になる。声で聴くと、会話は部屋の中で交わされているものになる。誰かが言いよどみ、誰かが笑ってごまかす。その間の取り方まで、別々の人の呼吸で聴こえてくる。一人きりの部屋で聴くと、それが思った以上に効く。
9時間22分は、1編あたりにすると1時間20分ほど。寝る前に1編ずつ聴けば、1週間で7つの恋を聴き終える。通勤の往復なら、1日1編のペースでも無理がない。どこで止めても、次の夜は新しい話から始められる。
短編が終わり、次の声に替わるところで手が止まった
聴き手として手が止まったのは、ひとつの短編が終わり、次の話が始まる瞬間だった。さっきまで聴いていた声が消えて、まったく別の声が、まったく別の誰かの恋を語り始める。1冊の本を読んでいるのに、7つの部屋を順に訪ねていくような感覚がある。
どの話にも星が出てくるが、恋の形はそれぞれ違う。どんな恋なのかは、ここには書かない。ただ、声が替わるたびに、自分の部屋の外にも、誰かを想いながら夜を過ごしている人が何人もいるのだと思える。それだけで、静かな部屋が少し広くなる。声が替わる数秒の間に、さっきの話の余韻と次の話への期待が並んで残る。その数秒が、この本でいちばん好きな時間になった。
いま聴くなら『一等星の恋』から。最初の1編を聴き終えたところで、この本の温度がつかめる。
静かすぎる部屋に声がほしい人に向いている
- 一日誰とも話さずに終わる夜が、最近少し増えた
- 重たい長編より、1話ずつ区切れる恋の話を聴きたい
- 一人の朗読より、何人もの声が入れ替わる作品が好き
- 泣ける話を聴きたいわけではないが、少しだけ心を動かされたい
向いていないのは、一組の恋人の行く末を、最初から最後までじっくり追いたい人。この本は7つの短い恋を渡り歩く作りなので、ひとつの話に深く沈む前に、次の話へ移っていく。長編の没入感を求める夜には、物足りなく感じるはずだ。
近い気分の一冊
誰とも話さない夜に聴くなら、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』も近い。あちらは一人の女性の静かな日々を、一人の声でじっくり聴かせる長編だ。こちらは何人もの声が入れ替わり、短い恋をいくつも聴かせる。ひとりの夜に寄り添うか、ひとりの夜をにぎやかにするかで選べる。『すべて真夜中の恋人たち』オーディブル感想
今夜、最初の1編を聴くには
作品ページを開いて「聴き放題で聴く」と出ていれば、追加の支払いなしでその場で再生できる。対象は入れ替わるので、開いたときの表示だけ見てほしい。『一等星の恋』のページを開く
Audible を使うのが初めてなら、最初の30日間は無料で試せる(対象は執筆時点)。Audible の無料体験を見る
今夜は部屋の明かりを少し落として、最初の1編の声が聴こえてくるのを待ってみてほしい。

コメント