連絡が来れば、その日の予定を全部空ける。来なければ、一日中その画面を見ている。他人がやっていたら止めるだろうし、傍から見れば馬鹿げていることも自分で分かっている。分かっていても、やめられない。
この状態がしんどいのは、外から見た滑稽さと、内側にいる人間の切実さのあいだに、埋めようのない差があることだ。だから相談しても「早く忘れなよ」しか返ってこない。正しい。正しいけれど、何の役にも立たない。誰にも共有できないまま、同じ夜を繰り返すことになる。
角田光代の『愛がなんだ』は、その差をそのまま書いた小説だ。慰めない。説教もしない。いま自分がいる場所を、正確に描いてみせるだけだ。聴き終えても相手からの連絡は来ないし、気持ちも消えない。ただ、自分の状態を少し外側から眺められるようになる。それだけで夜の重さは変わる。
5時間23分。通勤の往復なら3日で終わる。オーディオブックを試す1本目としても短くて扱いやすい。
どんな話か
会社勤めのテルコは、マモちゃんという男に恋をしている。マモちゃんのほうは、テルコに特別な関心を持っていない。呼ばれれば行き、呼ばれなければ待つ。その生活が、仕事も友人関係も少しずつ侵食していく。
声で聴くとどう変わるか
語りは佐伯美由紀。テルコの一人称が淡々と読まれるのが、この作品では決定的に効く。本人にまったく悲劇のつもりがないからだ。「かわいそうな私」の演技が一切入らない。声が平熱のぶん、言っている中身の異常さが浮かび上がる。
紙で読むと、テルコの語りは軽妙なモノローグとして流れていく。ところが音になると、同じ文章が独り言に変わる。誰にも聞かせるつもりのない言葉を聞いてしまっている感覚が生まれる。ここがこの作品を耳で聴く最大の理由だと思う。滑稽さと痛ましさが同時に立つ。
5時間23分。通勤の往復なら3日、家事のあいだに流すなら1週間で終わる。分量としては入門にちょうどいい。ただし聴き終えたあと数日は自分の連絡履歴を見返したくなるので、心に余裕のある週に始めたほうがいい。
どの場面で引き込まれたか
手が止まるのは、劇的な場面ではない。テルコが自分の行動を自分で説明する場面だ。彼女は自分のやっていることを正確に把握している。把握したうえで続けている。
この小説が容赦ないのは、主人公に「気づいていない」という逃げ道を与えなかったところだ。気づいていないなら、いつか気づいて終わる話になる。テルコは最初から全部見えている。それでも動けない。その構造を、声はごまかさずに運んでくる。
もうひとつ、テルコの周りにいる人たちの描き方がいい。友人も同僚も、彼女を心配したり呆れたりしながら、それぞれ自分の恋愛で同じことをやっている。テルコだけが特別におかしいわけではないと、小説のほうが先に言ってくる。だから読後に残るのは「こうはなりたくない」ではなく「これは自分だ」のほうになる。朗読で人物ごとの温度差が出るぶん、この効果は耳のほうが強い。
いま聴くなら『愛がなんだ』から。最初の10分でテルコの温度が分かる。
こんな人に向いている
- 報われない相手を諦めきれない自覚がある
- 都合よく慰められるより、正確に描写されたい
- まず短い作品で、耳で小説を聴く感覚を試したい
向いていないのは、主人公に共感できることを前提に聴きたい人。テルコは擁護しにくい。読者に好かれる方向へ一度も寄せてこない。そこを削らなかったことが、この小説の価値になっている。
近い気分の一冊
テルコの温度が刺さったなら、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』が近い。あちらは片思いですらない。誰かに強く執着する手前で止まっている人の話だ。テルコが持て余しているものを、こちらの主人公は最初から持っていない。同じ孤独でも向きが違う。『すべて真夜中の恋人たち』オーディブル感想
伝わらない片思いを、笑いに変えて読みたいなら、森見登美彦の『恋文の技術』へ。あちらは伝える気持ちそのものより、伝える前の一歩で足踏みする話だ。テルコが伝えても届かない痛みを抱えるのに対し、あちらは伝える手前で立ち止まる。片思いの重さの種類が違う二作を並べると、それぞれの不器用さがより際立つ。『恋文の技術』オーディブル感想
同じ角田光代でも、もっと後戻りできない場所まで進んでしまう話を読みたいなら、『紙の月』へ。あちらの主人公は片思いすら通り越して、誰にも言えない一線を越えていく。テルコの執着が「動けない」ことで進まないのに対し、あちらは動き続けることで止まれなくなる。執着の向かう先が違う二作だ。『紙の月』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『愛がなんだ』のページを開く
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今夜、返信の来ていない画面を閉じて、代わりにこれを再生してほしい。テルコがあなたより少し先を歩いてくれる。

コメント
コメント一覧 (2件)
[…] もう少し痛いものが欲しいなら、角田光代の『愛がなんだ』へ。あちらは強がりを剥がしたあとの姿を、逃げ場なしで書いている。こちらが「言えるようになる」話だとすれば、あちらは「言ってしまった人」の話だ。順番に聴くと落差が効く。『愛がなんだ』オーディブル感想 […]
[…] 報われない片思いという意味では、角田光代の『愛がなんだ』も近い。あちらは想いを伝えることそのものより、伝わらない相手にどう向き合うかに焦点がある。伝える手前で止まる一郎と、伝えたあとも変わらない状況に留まり続けるテルコ。どちらも、片思いのかたちの一つとして読める。『愛がなんだ』オーディブル感想 […]