『純喫茶トルンカ しあわせの香り』オーディブル感想|再会の夜に

何十年も前の初恋を、ある香りでふいに思い出してしまう夜

知らない店の前を通りかかったとき、どこかで嗅いだ匂いがして足が止まる。思い出したのは、もう何年も会っていない人の顔だった。会いたいと思ったことはないはずなのに、その日は一日、その人のことばかり考えてしまう。

厄介なのは、この記憶が自分で呼び出したものではないことだ。忘れたつもりでいたのに、香りひとつで簡単に戻ってくる。誰かに話すほどの出来事ではない。けれど、なかったことにもできない。名前のつけようがないまま、胸の奥にもう一度しまい直すしかない。

八木沢里志の『純喫茶トルンカ しあわせの香り』は、そういう再会の話を三つ集めた一冊だ。聴き終えても、昔の相手が目の前に現れるわけではない。ただ、思い出してしまうことを、未練ではなく自分の一部として受け取れるようになる。

再生時間は8時間24分。三つの話に分かれているので、今夜は最初の話の入口だけでいい。就寝前に30分ずつなら、半月あまりで聴き終えられる。

目次

どんな話か

東京・谷中の路地裏にある喫茶店「トルンカ」を舞台にしたシリーズの第二弾。二十年間店に通う高齢の女性・千代子によみがえる初恋の記憶、看板娘の幼馴染・浩太が胸に隠してきた本心、人生の岐路に立つイラストレーターの卵・絢子の旅立ち。三つの再会が、珈琲の香りの中で静かに描かれる。

声で聴くとどう変わるか

朗読は前作と同じ板倉ミキ。落ち着いた声が、そのまま店の扉を開けてくれる。前作を聴いた人なら、最初の数分で「あの店に戻ってきた」と分かるはずだ。

香りは、文字で読むと説明として流れていきやすい。声で聴くと、珈琲を淹れる手つきや、湯気が立つまでの間が、語りの速さとして伝わってくる。香りそのものは届かないのに、香りを待つ時間だけは耳で分かる。この作品の題名が、声で聴くとよく効いてくる。

三つの話で語り手の年齢も立場も大きく変わる。それでも声の温度は変わらない。そのおかげで、長い時間を生きてきた人の初恋も、若い人の言えない本心も、同じ重さで聴こえる。年齢で気持ちの重さが決まるわけではないと、声が教えてくれる。

8時間24分は、通勤の往復で1時間ずつなら8日ほど。話の区切りがはっきりしているので、間が空いても戻りやすい。

千代子の初恋の話で、手が止まった

聴き手として手が止まったのは、最初の話で、千代子が遠い昔の初恋を思い出していくところだった。二十年も同じ店に通ってきた人が、なぜそこへ通い続けてきたのか。その理由が少しずつ見えてくる。

どんな再会が待っているのかは、ここには書かない。ただ、長い時間を経た人の思い出し方は、若い頃の恋の痛みとは違う形をしている。悔やむのではなく、確かめるように過去をなぞっていく。その静かさに引き込まれた。

いま聴くなら『純喫茶トルンカ しあわせの香り』から。千代子が店の席に着くところで、この巻の空気が分かる。

昔の誰かをふいに思い出す人に向いている

  • 忘れたはずの初恋を、匂いや場所で思い出すことがある
  • 劇的な再会より、静かに過去と向き合う話を聴きたい
  • 三つの話に区切って、少しずつ聴き進めたい

向いていないのは、一組の恋人を最初から最後まで追う長編を求める人。恋はこの巻の芯にあるが、主役は話ごとに入れ替わる。

シリーズの第二弾だが、話はそれぞれ独立して聴ける。前作を知らなくても置いていかれることはない。

近い気分の一冊

シリーズ一作目の『純喫茶トルンカ』は、来るかどうか分からない人を待ってしまう夜の話だった。こちらは待つ話ではなく、時間を越えてもう一度出会い直す話になる。同じ店の同じ声で、気持ちの向きだけが過去へ変わる。『純喫茶トルンカ』オーディブル感想

今夜から店の扉を開けるには

作品ページを開いて「聴き放題で聴く」と出ていれば、追加の支払いなしでその場で再生できる。対象は入れ替わるので、開いたときの表示だけ見てほしい。『純喫茶トルンカ しあわせの香り』のページを開く

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今夜は、千代子が店の扉を開けるところまででいい。ふいに思い出した誰かの顔を、珈琲の湯気の向こうに置いてみてほしい。

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