いまの生活に不満はない。仕事も人間関係も、大きく間違えたとは思っていない。それでも、あのとき別の選択をしていたらどうなっていたかを、年に何度か考えてしまう夜がある。
この考えは口に出しにくい。言えば、いまの生活を否定しているように聞こえるからだ。だから誰にも言わないまま、ひとりで数分だけ考えて、また日常に戻る。片付いたわけではないので、また同じ夜に戻ってくる。年に何度か、そうやって同じ場所を回っている。
平野啓一郎の『マチネの終わりに』は、その数分間を14時間かけて引き受ける小説だ。聴き終えても答えは出ない。選ばなかった人生が正解だったのかどうかは、最後まで分からないままだ。ただ、それを考えること自体は後ろ向きではないと分かる。問いを抱えたままでいい、という許可が出る。
14時間10分という長さに身構えなくていい。1日30分ずつなら3週間で終わる。むしろこの作品は、急がないほうが効く。
どんな話か
38歳のクラシックギタリスト・蒔野と、40歳の通信社記者・洋子が出会う。二人は互いを深く理解し合うが、それぞれの事情が重なって簡単には一緒になれない。会える時間はいつも短い。
声で聴くとどう変わるか
語りは羽飼まり。この作品は会話が長く、しかもその会話が知的な内容に踏み込む。芸術論、記憶の話、人生の選択の話。文字で追うと理屈っぽく見えかねない部分が、声になると「この二人はこういう話ができる相手なのだ」という事実として伝わる。理屈が関係の証拠に変わる。
もうひとつ、音楽の描写が多い小説を耳で聴くと、演奏の場面で頭の中の音量が上がる。文字で「ギターが鳴った」と読むのと、声がその場面を運んでくるのとでは、鳴り方が違う。この作品でいちばん得をするのは、たぶん耳のほうだ。
14時間10分は長い。ただ、この作品には長さが要る。二人が離れている期間の手触りが、そのまま再生時間として体に残るからだ。1日30分ずつ、3週間かけて聴くのが合っている。早く先を知りたくなるが、急がないほうが効く。すれ違いの物語を短時間で消化すると、すれ違いが単なる段取りに見えてしまう。
どの場面で引き込まれたか
引き込まれたのは、二人が会っている場面ではなかった。会えていない期間に、それぞれが淡々と仕事をしている描写だ。相手のことを考えていない時間がちゃんと書かれている。
恋愛小説の多くは、会っていない時間を「待っている時間」として描く。この小説はそうしない。二人には別の人生があり、その人生のほうが時間としては圧倒的に長い。それでも消えないものとして相手が残る。そこに手触りがある。
そしてこの作品には、二人の関係を左右する第三者の判断が挟まる。誰かが悪意で邪魔をするというより、一つの小さな選択が取り返しのつかない形で効いてしまう。理不尽ではあるが、現実の人間関係もだいたいそういう壊れ方をする。声で聴くと、その場面が過ぎたことに数分遅れて気づく。何が起きたかを飲み込む速度が、目で読むときより遅い。その遅れが、そのまま登場人物の視界と重なる。
いま聴くなら『マチネの終わりに』から。最初の演奏会の場面までで、この小説の温度が分かる。
こんな人に向いている
- 選ばなかったほうの人生を考えることがある
- 登場人物と同世代か、それに近い年齢である
- 長い作品を数週間かけて聴くのが苦にならない
向いていないのは、すれ違いの物語に耐えられない人。二人はなかなか会えない。ここで手を打てば済むのに、と思う場面が何度も来る。そこに苛立つ人にとっては、14時間はただ長い。
近い気分の一冊
この作品の余韻が続いているなら、宮本輝の『錦繍』へ。あちらは十年前に終わった関係を、往復書簡だけで振り返る。蒔野と洋子が「まだ間に合うか」を考えているのに対し、こちらは間に合わなかった側の話だ。同じ問いの、答えが出たあとの姿として読める。『錦繍』オーディブル感想
逆に、二人が「なぜ選び合えたのか」のほうが気になったなら、辻村深月の『傲慢と善良』が対になる。あちらは条件で人を絞り込む場所から始まる話で、蒔野と洋子が最初から持っていたものを、登場人物たちは最後まで探している。『傲慢と善良』オーディブル感想
長い時間をかけてしか測れない結びつきという意味では、一穂ミチの『光のとこにいてね』も近い。蒔野と洋子が数年単位ですれ違うのに対し、あちらは四半世紀という長さで一つの絆を描く。『光のとこにいてね』オーディブル感想
間に合わなかった側の恋なら、小坂流加の『生きてさえいれば』へ。手紙を通して、終わった恋が明かされていく話だ。「まだ間に合うか」を問われる話と、答えが出たあとの記憶をたどる話。『生きてさえいれば』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『マチネの終わりに』のページを開く
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今夜は最初の演奏会の場面まででいい。そこで蒔野の音を聴いた洋子と、たぶん同じ顔をしている。

コメント
コメント一覧 (3件)
[…] この作品が刺さったなら、平野啓一郎の『マチネの終わりに』も同じ場所に届く。あちらは選ばなかった人生を、大人になってから振り返る話だ。暁海が選ぶ前に手放したものを、蒔野と洋子は選んだあとに数えている。順番が逆なぶん、痛みの質が違う。『マチネの終わりに』オーディブル感想 […]
[…] 選ばなかった時間の重さという意味では、平野啓一郎の『マチネの終わりに』も近い場所にある。あちらは数年単位ですれ違う男女の話だが、会えない時間の長さがそのまま関係の深さに変わっていく構造は同じだ。『マチネの終わりに』オーディブル感想 […]
[…] 選ばなかった時間について考えさせられるという意味では、平野啓一郎の『マチネの終わりに』も近い場所にある。あちらは今まさに間に合うかを考える二人の話だが、『生きてさえいれば』は間に合わなかった側の恋を、後から手紙で辿り直す話だ。同じ問いを、違う時間軸から見ることになる。『マチネの終わりに』オーディブル感想 […]