プロフィール欄を上から下まで読んで、年齢と収入と住んでいる場所で絞り込む。写真を二枚見て、三秒で判断する。自分がそれをやっているとき、たいして罪悪感はない。効率の問題として処理している。
厄介なのは、自分も同じように誰かの一覧から外されている、と気づく瞬間があることだ。しかもそれは責められない。条件で選ぶのは悪いことではないし、誰も間違っていない。ただ、その仕組みの中に長くいると、自分の何かが確実に削れていく。その削れ方に名前がないから、人に話しても「そういうものだよ」で終わる。
辻村深月の『傲慢と善良』は、その削れ方に二つの名前をつける。傲慢と、善良だ。聴き終えても婚活は楽にならないし、条件で選ぶのをやめられるわけでもない。ただ、自分がこれまでどちらの顔でそこに立っていたかが分かる。分かると、少し姿勢が変わる。
14時間39分は長い。ただ冒頭は失踪から始まるので、最初の30分で引きの強さは判断できる。合わなければそこで止められる。
どんな話か
39歳の西澤架は、婚活アプリで出会った35歳の坂庭真実と婚約している。ある日、真実が突然姿を消す。架は彼女の居場所を探すうちに、自分がほとんど何も知らなかった彼女の過去を辿ることになる。
声で聴くとどう変わるか
語りは雨宮天と松岡禎丞。この作品は架の視点と真実の視点が入れ替わる構成で、しかも同じ出来事が二人の側から別々に語り直される。誰の目で見ているかを取り違えると、話の意味が反転してしまう。声が替わることが、そのまま視点の切り替わりの合図になる。
もう一つ、これは Audible のオリジナルナレーションとして制作された作品だ。既存の朗読を後から音声化したものではなく、最初から聴かれることを想定して作られている。二人の声で語り分ける前提が、作品の構造とずれていない。
効いてくるのは、登場人物が自分の正しさを説明する場面だ。誰も嘘をついていない。それぞれが自分なりに誠実に話している。ところが声になると、その誠実さの奥にある自己弁護が透けて聞こえる。文字だと「まっとうな言い分」に読めた台詞が、耳だと少し違う手触りになる。
14時間39分。1日30分で3週間、通勤の往復なら2週間ほど。前半は失踪の謎を追う推進力があるので進みやすく、後半で速度が落ちる。落ちたところが、この小説の本題だ。
どの場面で引き込まれたか
手が止まったのは、架が真実について何も知らなかったと自覚する場面ではない。その少し前、彼が自分の選択を「妥当だった」と説明するところだ。理屈は通っている。聞いていて反論できない。それなのに、聞き終えたあとに何か嫌な感じが残る。
この小説がうまいのは、読者に「こいつはひどい」と思わせないことだ。架の言い分はだいたい正しい。正しいまま、少しずつずれていく。自分の中にも同じずれがあると気づくのは、たいてい一拍遅れてからになる。
そして題名の意味が分かる瞬間が来る。傲慢と善良は、対になる言葉ではなかった。同じ一人の人間の中で同時に成立する。ここに辿り着くために14時間かける価値がある。
いま聴くなら『傲慢と善良』から。最初の30分で失踪の輪郭が見える。
こんな人に向いている
- 条件で人を選ぶ場所に、いる、またはいたことがある
- 親の価値観が自分の判断に混ざっている気がする
- 登場人物に共感できなくても最後まで聴ける
向いていないのは、主人公を好きになりたい人。二人とも擁護しづらい場面を通る。特に後半、真実の側の描かれ方には賛否がある。そこを削らなかったのがこの小説の強さだが、読後感の良さを求めて聴くと裏切られる。
近い気分の一冊
この作品が刺さったなら、平野啓一郎の『マチネの終わりに』へ。あちらは条件ではなく、互いを深く理解し合った二人が、それでも一緒になれない話だ。選ぶ基準の話と、基準が要らなかった二人の話。並べて聴くと、どちらも同じ問いの裏表だと分かる。『マチネの終わりに』オーディブル感想
結婚そのものから距離を置いてきた話なら、宮島未奈の『婚活マエストロ』も近い。あちらは条件で選ぶ以前に、婚活に興味を持つことすらしてこなかった主人公の話だ。条件で選び疲れた側と、選ぶ土俵に上がってこなかった側。向き合ってこなかった時間の長さが違うだけで、根っこにある問いは同じだと分かる。『婚活マエストロ』オーディブル感想
条件ではなく心の動きで選べなくなる話なら、伊吹有喜の『鎌倉茶藝館』も近い。あちらはすべてを失った女性が、安らぎと心を乱す想いのどちらを選ぶか迷う話だ。条件で選んできた側と、条件が通用しなくなった側。並べると、選ぶことの難しさが両方の立場から見えてくる。『鎌倉茶藝館』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『傲慢と善良』のページを開く
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今夜は失踪が明らかになる場面まででいい。そこから先、架が誰に会いに行くかを知りたくなる。

コメント
コメント一覧 (3件)
[…] 逆に、二人が「なぜ選び合えたのか」のほうが気になったなら、辻村深月の『傲慢と善良』が対になる。あちらは条件で人を絞り込む場所から始まる話で、蒔野と洋子が最初から持っていたものを、登場人物たちは最後まで探している。『傲慢と善良』オーディブル感想 […]
[…] 人を条件で選んできたと気づく話なら、辻村深月の『傲慢と善良』も近い。あちらは婚活アプリでの出会いから始まり、条件で人を見てきた自分に気づかされる話だ。条件で選ぶことに慣れた側と、結婚そのものから距離を置いていた側。どちらも、向き合ってこなかった部分に気づかされる点で重なる。『傲慢と善良』オーディブル感想 […]
[…] 条件や理屈より、心の動き方そのもので迷う話という意味では、辻村深月の『傲慢と善良』も近い。あちらは条件で選んできた自分に気づく話で、こちらは条件を超えたところで選べなくなる話だ。選ぶ基準が定まっている人と、定まらない人。並べて聴くと、恋愛における「選ぶ」ということの難しさが立体的に見えてくる。『傲慢と善良』オーディブル感想 […]