新しい場所に来て、周りの人はみんな何かを掴んでいるように見える。自分だけが、まだ何も決められていない。気になる人はいるのに、それが好意なのか憧れなのか、自分でも区別がつかない。
厄介なのは、答えを急ぐほど分からなくなることだ。友人に相談すると、はっきりした言葉で返ってくる。その言葉が自分のものではないと分かるから、かえって黙ってしまう。名前のつかない気持ちは、名前がつくまで扱いようがない。
夏目漱石の『三四郎』は、決められない人の側に立ってくれる小説だ。聴き終えても、自分の気持ちに名前がつくわけではない。ただ、分からないまま過ごす時間にも意味があったと、百年以上前の青年が教えてくれる。
再生時間は9時間22分。今夜は最初の30分だけでいい。通勤の往復なら、1週間で聴き終えられる。
どんな話か
熊本から上京した三四郎は、大学での新しい生活に戸惑っている。同郷の先輩や、同じ学生たちとの出会いの中で、一人の女性が気にかかり始める。明治末の東京を舞台に、一人の青年が揺れ動く日々を描いた青春小説だ。
声で聴くとどう変わるか
朗読は佐々木健。落ち着いた声で、三四郎の戸惑いや、周囲の会話の機微を丁寧に読み分けていく。登場人物が多く、話し言葉も古い作品だが、声の調子で誰が話しているのか自然と分かる。
文字で読むと、漱石の文章は少し堅く感じる。声で聴くと、皮肉やユーモアが会話の呼吸の中に生きてくる。三四郎が言葉に詰まる間も、声ならではの味わいになる。
9時間22分は、通勤の往復で1週間。就寝前に30分ずつなら、19晩ほど。ゆっくり聴いて、その日の気分で進めるのが合っている。
三四郎の周りには、変わった人物が次々に現れる。研究に没頭する先輩、よく喋る友人、つかみどころのない人々。会話を聴いているだけで、東京という街の空気が立ち上がる。三四郎が置いていかれるような感覚は、新しい環境に入った経験がある人なら、きっと覚えがある。
池のほとりの場面で、聴き入った
聴き手として手が止まったのは、三四郎が池のほとりで、気になる女性を見かける場面だった。ほんの短い出会いなのに、彼の視線が何を追っているかが、細かな描写から伝わってくる。気持ちに名前がつく前の、いちばん揺れている時間がここにある。
この場面の印象は、物語が進むにつれて少しずつ変わっていく。どう変わるのかは、ここには書かない。
三四郎は、その女性の前で、うまく言葉が出てこない。何を考えているのかと問われても、自分でも分からない。その不器用さが、声で聴くと笑えるほど身に覚えがあって、同時に少し切ない。
いま聴くなら『三四郎』から。最初の数分で、この語りの調子が分かる。
こんな人に向いている
- 自分の気持ちを、まだ言葉にできないでいる
- 周りと比べて、決められない自分を責めている
- 名作と呼ばれる古典を、耳から聴いてみたい
向いていないのは、恋が成就する展開を求める人。この作品は、気持ちが決まらないことそのものを描いている。すっきりした答えは用意されていない。
長編だが、一章ごとの区切りが短く、止めても戻りやすい。毎晩少しずつ聴くのに向いている。聴き進めるうちに、三四郎のように、自分も分からないことを抱えたままでいいのだと思えてくる。
逆に、迷っている最中の人には、これほど寄り添ってくれる物語はない。三四郎の戸惑いを聴いているだけで、自分の迷いが少し軽くなる。答えが出なくても、聴いた夜の分だけ、気持ちは前に進んでいる。
近い気分の一冊
気持ちより先に条件を見てしまう話なら、辻村深月の『傲慢と善良』も近い。あちらは選ぶ基準の話で、こちらは選べない戸惑いの話だ。向きは違っても、自分の気持ちが自分で分からないという点では、同じ問いを抱えている。『傲慢と善良』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『三四郎』のページを開く
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今夜は、三四郎が東京に着くところまででいい。分からないままの気持ちを抱えて、声に耳を預けてみてほしい。

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 人生の次の一歩に迷う話なら、夏目漱石の『三四郎』も近い。あちらは上京した青年が、気になる女性への思いに名前をつけられずに揺れる話だ。決めないまま過ごしてきた時間があるという点で、どちらも同じ場所に立っている。『三四郎』オーディブル感想 […]