いつまでも続くと思っていた時間に、終わりがあると気づく瞬間がある。大げさな出来事は何も起きていない。ただ、隣にいる人の横顔を見ていて、急に胸の奥が静かになる。
そういうとき、人は何かしなければと焦る。特別な場所へ行くか、大事なことを言うか。けれど本当に必要なのは、焦りを脇に置いて、いつもの時間をいつもどおり過ごすことかもしれない。それを肯定してくれる言葉は、案外見つからない。
堀辰雄の『風立ちぬ』は、その肯定に近い場所へ連れていってくれる。聴き終えても、時間が止まるわけではない。ただ、限りがあるからこそ、何もしない一日がどれだけ豊かだったかが分かる。
再生時間は3時間25分。今夜は最初の30分だけでいい。通勤の往復なら、3日で聴き終えられる。
どんな話か
語り手の「私」は、婚約者の節子とともに、信州の高原にあるサナトリウムで暮らし始める。病を抱えた彼女との、何も起こらないような日々が淡々と綴られていく。作者自身の体験が下敷きになった、昭和の名作だ。
声で聴くとどう変わるか
朗読は松宮森乃。透明感のある声で、語り手の目に映る高原の空気を、そのまま届けてくれる。感情を押しつけない読み方なので、聴き手が自分の大切な人を思い浮かべる余白がある。
文字で読むと、詩的な文章は少し距離を感じる。声で聴くと、風や光の描写が呼吸のように入ってくる。景色を目で追うより、音で受け取るほうがこの作品には合っている。
映画や小説の題名として知られる言葉が、物語の中でどう使われているのかも、聴いていて楽しみになる。
3時間25分は、就寝前に30分ずつで7晩。短い章で区切られているので、眠くなったところで止めても、続きの入口に迷わない。
作品は5つの章に分かれていて、季節が少しずつ移っていく。章が進むごとに、空気の温度が変わっていくのが、声の調子から分かる。同じ高原の景色を描いていても、聴く側の受け取り方が、章ごとに変わってくる。
何も起きない時間の描写に、聴き入った
聴き手として手が止まったのは、二人がただ並んで窓の外を眺める場面だった。会話はほとんどない。それなのに、相手のそばにいることそのものが、何よりの出来事として響いてくる。
この静けさは、後半の空気に深く関わってくる。どう変わっていくのかは、ここには書かない。
語り手は、大げさな言葉で気持ちを語らない。景色や、相手の仕草を丁寧に描くことで、気持ちを代わりに伝えている。聴いているうちに、自分の身近な人の仕草まで思い浮かんでくるのが、この場面のいちばんの力だと思う。
いま聴くなら『風立ちぬ』から。最初の数分で、この物語の静かな温度が分かる。
こんな人に向いている
- 大切な人との時間を、いつもより丁寧に過ごしたい
- 大きな事件のない、静かな文章を耳に流したい
- 日本文学の名作を、短く一冊聴いてみたい
向いていないのは、物語に明確な起承転結を求める人。出来事より空気を描く作品なので、筋だけを追うと物足りなく感じる。
日々の忙しさの中で、大切な人と並んで過ごす時間を後回しにしがちな人にも合う。説教めいた言葉は一つもない。ただ静かな描写を聴いているうちに、今夜は早く帰ろうという気持ちが、自然に湧いてくる。
逆に、静かな作品が好きな人には、繰り返し聴ける一冊になる。時間を置いて聴き直すと、同じ場面の響き方が変わっている。その変化を確かめるのも、楽しみ方のひとつだ。
近い気分の一冊
何気ない毎日がかけがえのないものだと気づく話なら、宮下奈都の『静かな雨』も近い。あちらは新しい記憶を留められなくなった恋人と日々を重ねる話で、こちらは限りある時間を並んで過ごす話だ。どちらも、特別なことよりも一緒にいることに重心がある。『静かな雨』オーディブル感想
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『風立ちぬ』のページを開く
Audible を使うのが初めてなら、最初の30日間は無料で試せる(対象は執筆時点)。Audible の無料体験を見る
今夜は、高原の朝が始まるところまででいい。隣にいる人の時間を思い浮かべながら、声に耳を預けてみてほしい。

コメント