気づけば何日も、誰とも話していない。仕事の連絡は文字で済むし、買い物も会計だけで終わる。困ってはいない。ただ、自分の声を今日まだ一度も出していないと気づいた瞬間だけ、少し怖くなる。
この怖さは相談しにくい。話せば「人と会えば」で片付けられてしまうし、そもそも会いたいわけでもない。寂しいのとも少し違う。足りていないものが何なのか、自分でも名前をつけられない。名前がないものは、あることにすらできない。
川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』は、その名前のなさを、不幸という言葉を一度も使わずに書いた小説だ。聴き終えても生活は変わらない。人と会うようにもならない。ただ、自分の状態を過不足なく言い当てられた感覚が残る。同情されるより、そのほうがずっと楽になる。
9時間3分。文体が独特で、紙では挫折しやすい作品として知られている。朗読だとむしろ読みやすい。目で読んで諦めたことがある人ほど、耳から入る価値がある。
どんな話か
主人公は校正の仕事をしている。人と関わるのが得意ではなく、生活はほとんど部屋と原稿で完結している。ある日出会った三束さんという年上の男性と、少しずつ言葉を交わすようになる。
声で聴くとどう変わるか
語りは小林さやか。この小説は文章のリズムが独特で、句点の位置が普通ではない。息継ぎの場所が読者の予想とずれる。目で読むと引っかかって、何度か戻ることになる。
ところが声になると、その引っかかりが呼吸としてすっと入ってくる。読点の少ない長い一続きが、主人公の思考が止まらない状態そのものとして聞こえる。読みにくさが特徴だった文章が、朗読では読みやすさに反転する。こういう作品はあまりない。文体で敬遠していた人ほど、耳から入る価値がある。
9時間3分。光の描写が多い小説なので、夜に部屋の明かりを落として聴くと、書かれている光のほうが明るくなる。1日30分を2週間か、静かな休日にまとめて。ただし後述するとおり、聴くタイミングは選んだほうがいい。
どの場面で引き込まれたか
主人公が誰かと親しくなる場面ではなかった。手が止まったのは、彼女が自分の生活を不幸だと思っていないことが分かる場面だ。
孤独を描く小説の多くは、その状態を問題として扱う。この小説はそうしない。主人公は自分の暮らしを受け入れていて、変えたいとも強くは思っていない。それでも何かが足りないと感じている。その「足りなさ」を、不幸という言葉を使わずに書き切っている。だから読んでいて言い当てられた感じがする。
校正という仕事の描写も効いている。他人の書いた文章の誤りを直し続ける仕事で、自分の言葉は一文字も残らない。主人公の生き方の比喩として置かれているのだが、説明は一切されない。ただ淡々と作業の手順が描かれる。声で聴くと、その作業の反復が生活のリズムとして耳に残る。文字で読むより単調に感じるはずで、その単調さこそがこの小説の温度だと思う。
いま聴くなら『すべて真夜中の恋人たち』から。最初の校正の場面で文体に慣れる。
こんな人に向いている
- 人と会わない生活が何日か続いている
- 大きな出来事より、細かい感覚の描写を読みたい
- 川上未映子の文体を、目で読んで挫折したことがある
向いていないのは、いま実際に孤独がつらい人。この小説は寄り添ってこない。同じ場所に黙って留まる。回復を目的に聴くと重い。落ち着いている時期に聴くほうが、この作品の良さは届く。
近い気分の一冊
この主人公の距離の取り方が分かるなら、角田光代の『愛がなんだ』も届く。あちらは正反対で、一人の相手に生活を全部差し出してしまう話だ。持たない人と、持ちすぎる人。両極に見えて、どちらも自分の輪郭が曖昧という一点で同じところに立っている。『愛がなんだ』オーディブル感想
二人でいるのに孤独だという話なら、又吉直樹の『劇場』へ。あちらは誰かと一緒に暮らしながら、それでも隣の人が見えていない話だ。一人でいる孤独と、二人でいるのに埋まらない孤独。並べて聴くと、孤独の形がひとつではないと分かる。『劇場』オーディブル感想
相手はいるのに共有できないという孤独なら、伴田音の『君が失くした「恋」の相手』へ。あちらは恋人が記憶を失い、二人で積み重ねたものを自分だけが抱えている話だ。誰とも話さない孤独と、相手はいるのに分かち合えない孤独。並べて聴くと、孤独の形が一つではないと分かる。『君が失くした「恋」の相手』オーディブル感想
今夜の気分がまだ定まらないなら、オーディブルで聴ける恋愛小説おすすめ6選 から入ってほしい。気分から逆に引ける形で並べてある。
今夜から聴くには
作品ページを開くと、いま聴き放題の対象なら「聴き放題で聴く」と表示される。その場合は追加の支払いなしでそのまま再生できる。対象は入れ替わるので、表示だけ見てほしい。『すべて真夜中の恋人たち』のページを開く
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今夜、電気を消してから再生してほしい。声が部屋にある状態が、この小説にはいちばん合う。

コメント
コメント一覧 (3件)
[…] 誰とも話していない孤独を扱った話なら、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』へ。あちらは一人でいることそのものが孤独の中心だが、『劇場』は二人でいるのに孤独だという話だ。孤独の形が違う二作を並べると、輪郭がはっきりする。『すべて真夜中の恋人たち』オーディブル感想 […]
[…] 誰とも共有できない感覚を扱った話なら、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』も近い。あちらは誰とも話していない孤独を、こちらは相手はいるのに記憶を共有できない孤独を描く。孤独の形は違っても、名前のつけにくいこの感覚に静かに向き合っている点は同じだ。『すべて真夜中の恋人たち』オーディブル感想 […]
[…] テルコの温度が刺さったなら、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』が近い。あちらは片思いですらない。誰かに強く執着する手前で止まっている人の話だ。テルコが持て余しているものを、こちらの主人公は最初から持っていない。同じ孤独でも向きが違う。『すべて真夜中の恋人たち』オーディブル感想 […]